銀杏
サポートセンターでは、時折、プログラムを作文として書くことがあります。
そんな中で、今日は私りんご雨の体験を書いていきたいと思います。
「ちゃんと、20 代の女の子がすることをして。」
母に、言われた言葉でした。
銀杏を公園まで取りに行こうとしてしていたところでした。
ある日のことです。
おしゃれもせず、部屋着のまま出ていこうとする私に、母は、言いました。
悲痛に満ちた言葉に、私も混乱してしまいました。
20代の女の子がすること?
普通の女の子がすること?
普通のこと?(「普通のことをして」とも言われました。)
それは、私のことを「普通」ではないと言われた気がして、
じゃあ好きなことはできないということ?
普通のことって何?
いろいろ、頭の中を巡りました。
そして、悲しくもありました。
理解されないということは、してはいけないことなの?
どう生きていけばいいの?
途方に暮れ、私はいつの間にか、水の入ったペットボトルを母に投げつけていました。
「どうして、私のことを理解せずに、押し付けようとするの!?」
私も泣いていましたが、何より割れたガラスを泣きながら片付けていた母の姿。
申し訳なさが、心の隅にありながらも理解せず押し付けてくる母に怒りの感情が
沸いてきました。
その頃、誰かの声が聞こえたり、人が見張ってくる感覚に動けない私がいました。
そんな私を見て、「病院に行こう」と母は、言葉をかけてくれました。
やっと私の『今』を受け止めてもらえたような気がしました。生きててもいいんだと
思いました。
一歩進んだような気がしました。
私自身は病気だと受け入れてません。服薬に影響もありますが、これまで歩んできた
経験、痛み、悲しみが今の私を作っていると思うと、自分を少しだけ受け止めることが出来るようになりました。
私がたどってきた道は、無駄ではなかったんだ。そう思える道をこれからも歩いていきたいと思います。
最後になりましたが、
🎶みずほ事業の裏側🎶
大量生産中です。
人生の意味と目的 6 part2
今日はNaochannが書きます。
ここ、”みずほ”では課外プログラムとして、みんなでいろんなところへ出掛けることがあります。そこで私は、プラグラムの参加者を募るためのパンフレットをパソコンで作成してみました。みずほさんに来て初めてパソコンに触れることになって、少しは上達したかなと思います。みんなで桜島フェリーに乗ってのクルージングを計画しています。
下の写真は、みずほで作成しているプラパンというものです。ストラップになります。
キリスト教でも、欲望を捨て神に従って生きるのを勧めています。ただ、ブッダとキリスト教の違いは、超越者(神)を認めるか否か、死後、神の国へ入るか無になるかの救いの成就の形態の差の二点であるとおもいます。
この世を苦と認める点で両者は同じですが、現世の世界のみを認める仏教と、霊的世界を認めるキリスト教の差がここにあると思います。
仏教はこの世の苦から逃れることを主眼にしており、現実世界に密着している点でキリスト教と違うと思われます。
そしてニーチェが言うには仏教は”この世は苦である”として、そこから脱出することを目指し、キリスト教は、神の国に入ることを目指している。
どちらもこの世を受け入れることが出来ずに、どこかへ逃避しようとしている。
現実世界を受け入れることが出来ないことをニーチェはデカダン(退廃主義)と言って、この二つの宗教を批判したのでした。
この現実世界を肯定し、それ以外の世界はないとニーチェは言い、無意味になった世界でそれでもこの世を肯定し続け、貴族的創造的に生きることを求めたニーチェは神を否定してどこまでもおかしな世界に立ち至ってしまったと思います。
続きは、又、ということで。 Naochannでした。
人生の意味と目的 6 Part1
今回はNaochannがブログを書きます。 8月28日は、利用者のみんなとT社長さんとで学習会がありました。金銭管理について話し合ったり、私は精神の病の種類について尋ねたりしました。人間には様々な病気があるけど、人それぞれ都合や事情があるので、誰も責めることは出来ないな、と思うようになった今日この頃です。
(今日は仏教について書こうと思います。)
[仏教では、煩悩を消して、分別を止めることによって現象を現象としてそのまま受け入れ入れることができる。煩悩がある人は、自分の感覚するものに執着して、「これは良い」「これは悪い」と判断してしまう。しかし、こういう判断(分別)は、我々が勝手に作り上げた一種の物語に過ぎない。バッグでも同じバッグなのに、ブランド物のバッグなら価値が高くて、スーパーで使っているビニールのバッグは価値が高くないというのも我々が作り上げた妄想にすぎない.]
ブッダが言うには、分別を捨てて、モノや世界に対する渇愛を滅尽すれば、もはや自分やモノ、世界が、あるとも無いとも言えない単なる流れるだけの現象の世界だけが残るわけです。そして、悟りを開くと輪廻転生せず、無になるというのが、仏教での救いであり目標であるわけです。
私が思うに、人間は、存在する物にも自分の気持ちにも、言葉を当てはめて区別しているだけで、言葉、つまりシンボルという代用物を用いて真実在を理解しているにすぎないのではないのでしょうか。
だから人間には本当の世界が分からないわけです。
仏教がいうように、言葉も迷妄にすぎないと私は思うのです。
写真は音楽療法の様子です。
part2は次回書きます。 今日はNaochannが書きました。
8月30日(水)
こんにちは
私が先週でたプログラムは
1回目は、個別で漢字をしました。
毎回、思うのですが小学生の時に覚えた漢字が
なかなか思い出せなくなっていることに凹みます。
読むことは、なんとか大丈夫なのですが少しでも
覚えられるようにしたいと思います。
2回目は、ノロウィルスなどの感染についての
注意点などの説明をうぉーりーさんがしてくださいました。
3回目は、来月(9月)のプログラムについてのミーティングでした。
今回、いっちーさんとみっちゃんさんが司会進行をしてくださり補助でスタッフのうぉー
りーさんで
行いました。
人前で司会進行できるなんて、すごいと思いました。すばらしいです。
短いですけど
今回は S でした。